北京稲門会&中国校友会章弘さん(政研90)のWeChatから転載, 原文は中国語版、日本語はDeepLによる自動翻訳,ここでのブログ掲載は本人の同意を得ている。
雲と霧に包まれた街は、まるで画家が空に油絵の具をはたいたかのようだ。
北京、晴れ、最高気温35度、最低気温21度、予報指数46、大気質良好。
昨日の午後、張斌氏のWeChatタイムラインで、男子アジアカップの優勝と準優勝の決勝戦が夜7時からCCTV-5で放送されるとの予告を見ました。
中国の男子バレーボールの試合を見るのも久しぶりだが、中国の男子サッカーや中国の男子バスケットボールの試合を長い間見ていなかったのと同じぐらいです。 また、2008年北京オリンピック以来オリンピックに無縁だし、世界的なコンペティションで印象的な結果を残しているわけでもありません。その結果、中国の男子バレーボールチームは、国民からほとんど忘れられてしまいました。
かつて中国の男子バレーボールチームは士気の高い強いチームでしたが、1980年代に香港で開催されたアジア選手権で韓国と優勝を争った時のことを思い出します。 その日の夜10時半になると、解説者の宋世雄は、CCTVが購入した衛星放送の時間が来たため、ここでしか放送を終了できないことを数百万人の視聴者に告げました。しかし、試合は2-2の引き分けにとどまり、最終的な結末は未定でした。
23時過ぎ、中央人民ラジオはニュース番組で、先ほど閉幕した男子アジア選手権で中国男子バレーボールチームが韓国に3対2で勝利し、ついに優勝したことをいち早く伝えました。
これは大変なことで、北京の海淀地区の大学では、ワイン瓶やビール瓶や魔法瓶や醤油の炭酸飲料の瓶を割ったり、ほうきを松明代わりに燃やしてパレードをして祝ったりして大騒ぎになりました。初めて十数校の大学から1万人近い学生が北京大学の五四広場に集まり、中国男子バレーボールチームの国際大会での勝利を祝い、汪嘉偉、胡進、沈富麟といった選手たちはほとんど有名人になり、国民的英雄になりました。
中国の女子バレーボールチームの栄光もこの頃から始まり、中国の男子サッカーチームがアジアの頂点に立ったのもこの頃でした。
理想を掲げ、思想を解放する時代であり、経済が軌道に乗ろうとする時期であり、勝利で気持ちを表現する必要があったのでした。 何世代にもわたって人々を鼓舞してきた「中国再興」のスローガンは、時代の代弁者となったのです。
1987年に東洋に留学した私は、中国の女子バレーボールチームと男子バレーボールチームが多くの戦いと成功を収めた東京の代々木国際競技場に初めて足を踏み入れる機会を得ました。 テレビで何度も見ていた女子バレーボールの日中戦を初めて観戦しましたが、残念ながら中国チームは日本に2-3で敗れました。 実は、その時中国が日本に負けたのは、7年間の長い歴史の中で初めてのことだったのだ! 日本の選手たちは嬉し涙を流した。
特筆すべきは、その日の午後、スタジアムに集まった何万人もの観客のうち、中国から来たのは私たち3人だけでした。「ニッポン」チャントとハイタッチが鳴り響く中、私たち3人の「頑張れ中国!」が鳴り響かずに、とても些細なことに思えた。 しかし、私たちは最初から最後まで唱え続けました。
昨夜の試合開始時には、ここが日本チームの本拠地かと思うほど、リズミカルな「ニッポン」の掛け声と声援が響いていました。 実はタイのプラトゥムで試合が行われていることは、試合の解説者の紹介で初めて知りました。
日本のファンの少女たちは一緒に座り、好きな選手の名前を手に取り、手を叩き、「ニッポン」と叫んでいました。 実際、昨夜のスタジアムには五星紅旗を持った観客がかなりいたが、それはスタジアム中に散らばった状態だった。 「中国頑張れ」の声援が少し緩く、乱れているように聞こえました。 日本のチアリーダーは、日本から団体で飛んできたんでしょうかね? そして、中国人の応援団は、タイに住む中国人? 何しろ、まだ外出できる状態ではないのですから。
中国男子バレーボールチームは、気迫と闘志に満ちたプレーを見せてくれたが、残念ながら、親しみやすさを感じる選手は一人もいなかった。 結局、中国は若い日本代表の第2チームに3-0で勝利し、10年ぶり2回目のアジアカップ優勝を果たした。
窓の外では歓声が上がらないばかりか、仲間内でも中国男子バレーボールチームの辛勝を話題にすることはほとんどなかった。 もうスポーツに対する思いを伝える必要がない時代なのでしょうか。
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