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早稲田大学と中国人留学生の100年にわたる出会い

孫暁燕校友(語研科目履修終了1980‘)原文は中国語エッセイ、2017年の校友会設立記念中国メディアへの投稿、本人の同意を得てここに転載

  

宋教仁(右1)、何天炯(右4)、張継(右5)が同盟会機関紙《民報》編輯部でスタッフ福田奈(右2)、前田卓子(右3、宮崎滔天義姐)と記念撮影。(宮崎蕗苳中国宋慶齢基金会)


 早稲田大学は中国において古くから名声を得ており、辛亥革命、五四運動、共産党と国民党、抗日戦争、さらには過去40年間の中国の改革開放に携わった人々を語るとき、早大の刻印を見つけるのは難しいことではないだろう。


 一世紀の風雲を経て、2017年3月19日、北京に「早稲田大学中国中国校友会」が設立された。


 早稲田大学と中国人留学生の百年の出会いは、中国近代史の百年に書かれている。 筆者は近代史に詳しくないが、学者の著作やインターネットにある様々な痕跡を大胆にまとめ、早稲田大学と中国の世紀を振り返り、歴史に敬意を表し、中国校友会に祝辞を述べている。


 その歴史は、早稲田大学の過去にたどることから始まる。


 江戸幕府時代、佐賀藩士山本常朝は中国の儒教、仏教、日本の神道を融合して『葉隠聞書』を編纂し、藩主鍋島勝茂がこれに書かれた「名・忠・勇・死・狂」を用いて藩政を行った。 支配者や臣下の戒律に従って書かれた文章は、当然ながら主君に評価され、藩の「国学」となり、藩の武士学校である弘道館では必修科目となった。 その結果、『葉隠聞書』は『鍋島論語』と呼ばれるようになった。『葉隠聞書』は当初、江戸幕府支配の中核である北方武士や天皇家からは認められなかったが、それでもこの本は「武士道」の古典としての地位は疑うことなく、現代日本の精神と文化を学びたい人々にとって必読の書となっている。


 同じ頃、江戸幕府はオランダとの貿易を開始し、日本では「蘭学」が静かに台頭してきた。 日本各地に「蘭学寮」が出現した。


 佐賀藩の上層武士の子として生まれた大隈重信は、幼い頃から「弘道館」に入り、狭義で難解な『鍋島論語』を読んでいた。 大隈は、弘道館で旧学改革を唱え大論戦を起こし、首謀者として退学させられ、その頃開設された蘭学寮に進み、洋学を学べるようになった。幕末の蘭学に影響を受けた世代の若者たちが、明治維新を良い意味でリードし、遠大な憲政改革をリードしていくことになった。


 1867年、江戸幕府が倒れ、682年にわたる武士の支配が終わりを告げた。


 1868年、日本は明治時代に入り、大きな社会変動が始まった。


 幕府が倒れ、明治天皇に大政奉還し、大隈重信をはじめとする改革派は、選挙による議会と立憲君主制の確立を積極的に提唱した。1871年(明治4年)、大隈は大蔵大臣に就任し、内乱を鎮め、不平等条約を改正し、列強に立ち向かうために国を豊かにするための財政運営が行われた。 1874年(明治7年)に始まった自由民権運動は、幕末の動乱後も政権を握り続けた旧来の「藩閥」と対峙し、自由民権派の提案した憲政の中、大隈重信の憲政主張案が最も過激であった。 「自由民権運動」 は8年間続き、1881年(明治14年)に天皇が「10年後(1890年)に国会を開く」という勅令を出し、大隈ら過激派は解任され、自由民権運動は完全に閉ざされた。 「明治14年クーデター」と呼ばれるものであった。


  1882年(明治15年)、大隈は東京専門学校(後の早稲田大学)を設立した。 1882年、その年は中国の光緒8年だった。


 政治経済、法律、理科、英語の4教科からなる東京専門学校は、東京北西部の水田地帯に、教場と学生寮の2階建ての建物を建てていた。 大隈は、東京専門学校を設立する際、国内の政党間抗争を避けるため、政治的に難しい立場にあり、校務に介入できる立場ではなかった。 しかし、「学問の独立を全うし学問の活用を効し模範国民を造就する」という彼のモットーは、多くの独立した教授たちの努力によって根付き、早稲田大学の教旨となった。 1897年(明治30年)、東京専門学校は大学への昇格を申請すると発表した。 学部の設置、教員の採用、資金の調達などの準備に4年間を要した。


 さて、近代日本の中国観の変化の軌跡を見てみよう。 古代の日本は中国に憧れ、壮大な中国文化の影響を受け、制度を含めて何から何まで中国の真似をした。 鎌倉幕府、室町幕府の時代になると、日本は徐々に独自の文化や制度を発展させていったが、中国文化との同一化は衰えることなく続いていった。 明治維新後、伝統と近代化のせめぎ合いの中で、旧態依然とした「諸子学」を「漢学」という新しい名前で包んで、新しいスタイルの学校の中でまだ居場所を持とうとする守旧派が登場したのだ。 その代表が、明治期の東京帝国大学漢学科の設立である(安藤彦太郎『未来にかける橋―早稲田大学と中国』成文堂、中国語版武漢大学出版部)。


 17世紀、ヨーロッパのカトリック・イエズス会の宣教師たちは、中国では明朝末期から清朝初期にかけて、日本では明治時代前後に、まず中国、次に日本へとアジアに進出した。 宣教師たちはアジアの農民社会の価値観に関心を持ち、東洋の哲学、歴史、文化、風習のすべてを西洋に伝え、それが次第に西洋の学問体系のオリエンタリズムとなって、日本の漢字で「東洋学」と表現されるようになった。 その結果、主に外交、軍事、メディアの必要性から、中国の実態に焦点が当てられ、自然と「東洋学」の式が描かれるようになったのである。


 1894年、中国は光緒20年、日本は明治28年、近代日中関係の転機となる日清戦争が勃発した。 西洋を手本に作られた日本海軍は、長年尊敬してきた中国を破り、衰退した王朝が貧しくなったことで、革命後の日本国民の隣国、中国や朝鮮に対する「優越感」と「侮蔑感」は頂点に達していたのだ。 その結果、日本の「漢学」は、人々のメンタリティーの変化によって古代の世界から孤立し、現在に至っても、中国語を使わず、中国の現実に接することなく、完全に古典的な学問に発展していったのである。 一方、「東洋学」は、日清戦争後に「中国学」へと発展していく。 日本に近代的な学校制度が確立される過程で、英仏独の3言語が「理系のはしご」として公教育に取り入れられ、中国語やロシア語の人材を本当に必要としていた外交、軍事、ビジネススクールでは、外務省などの官立コースと民間のクラッシュスクールが提供された。 東京専門学校(早稲田大学)は、中国語研究と中国語教育の両方を視野に入れ、創立当初から中国語教師の確保と体系的な学問の構築を目指し、「中国学」のパイオニアとして、100年にわたる早稲田大学と中国の関係の原点となった。


 日清戦争が勃発した翌年の1895年、清国は講和を求めて日本と「下関条約」を結び、土地の割譲に加え、2億テール(両)の賠償金を支払うことになった。 その後、「欽定学堂章程」に続いて「奏定学堂章程」が緊急に公布され、賠償金を財源に公費留学生が日本に派遣されることになった。 しかも、湖広総督張之洞と両江総督劉坤一は、朝廷に嘆願書を出し、国費での短期留学の必要性と人材の早期育成を訴えたのである。 1898年、張之洞は著書『勧学篇(学問の勧め)』の中で、「留学という点では、西洋よりも東洋の方が優れている」と提言している。 ひとつの理由は、道路が近く、費用が安いので、より多くの学生を送ることができること。 1896年、清国からの留学生13名が初めて来日し、両江、湖広の両地方政府から派遣された留学生も前後にして来日した。早稲田大学社会科学部のポスドク孫倩氏の論文(『早稲田学報』2012年9月号)やWikipediaによると、早稲田大学には1898年から1899年にかけて中国人留学生が入学し、第一期生には唐宝鍔、戢冀翚、金邦平、楊蔭杭、楊廷棟、雷奮、繆其瑞、富士英、張継、李士偉などがいたという。 その後清国から来た留学生には、林長民、廖仲愷などがいた。 梁啓超が言ったように、中国人はこの時に、四千年の眠りから目覚めたのである。 出国した中国人留学生は、「なぜ中国は失敗したのか」「なぜ日本は豊かで強いのか」を考えるようになった。 政治経済、教育(教員養成)、法律という早稲田独自の分野は、国を救うための知識を渇望し、自由と公民権の教義を理解しようとする中国の学生たちから注目された。


 1900年、中国で義和団が勃発した。日本の学者たちは、この年を日本が資本主義から帝国主義へと移行する「歴史的転換期」と呼び、日本が中国問題に積極的に関与していた時期であった。 東京専門学校政治経済学部政治学科で英語、フランス語、中国語が必修外国語になったのはこの年である。 翌年、日本政府は東京専門学校を大学への昇格を認め、ごく普通の田舎の地名が、高等教育機関である私立「早稲田大学」の名前になった。


 鳩山和夫は、明治時代の自由民権派の政治家、法学者である。 鳩山一郎元首相の父、鳩山由紀夫元首相の曾祖父にあたる。早稲田大学の初代校長を務めた。


 高田早苗は、明治時代の自由民権派の政治家で、東京帝国大学政治学科を卒業後、早稲田大学学監(校長の補佐役)となった。 大隈重信の政友であり、早稲田大学政治経済学部の創設者で、1907年に学長となった。


 青柳篤恒は、近代日本中国学の学者であり、早稲田大学政治経済学部「中国問題研究」講座の創設者、早稲田大学「清国留学生部」の創設者・教務主任であった。


 1905年、清国が科挙制度を廃止すると、公費留学と私費留学が一気に増加した。 日本各地に速成校が乱立し、留学生の質にばらつきが出るなど、日本の教育や中国人留学生のイメージに深刻な影響を与え、日中両政府の問題にもなった。上述3人のリーダーシップにより、東京専門学校は、中国からの留学生を受け入れた当初から、標準的なカリキュラムと実践的な科目の提供で注目を集めた。 青柳篤恒は、さらに制度の標準化を図るため、1年の予科、2年の学部、1年の研究科からなる「清国留学生部」の設置を提唱し、速成教育を「早いが効果がない」と糾弾した。 1905年3月末、高田早苗と青柳篤恒は中国に特別視察し、各地の教育施設を訪問、袁世凱、張之洞ら中国の政治・経済・教育界の要人たちと意見交換を行った。 帰国後、高田早苗は青柳篤恒に清国留学生部の設立を託した。 青柳は科目の設定や寮の運営について各方面と相談を重ね、清国からの留学生・李士偉に何度も訪ねた(紀旭峰『宮崎滔天と早稲田大学中国留学生展』の展示資料より)。 この年の9月11日に早稲田大学清国留学生部の開校式が行われ、「学問は世界の公器であって、一国の私物ではない、中国とは隣国であり、その学問が我が国に入り、そのテキストが我が国で使われているのだから、その欠点を我々の長所で補って、その旧弊に報いることは文化の大成である」という主旨のことが発表された。(『宮崎滔天と早稲田大学中国留学生展』の展示資料より)。 その年の9月に始まった新学期には、762人の中国人留学生が早稲田大学に入学した。


 同年11月、日本政府は「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規則」という政令を発し、留学生の資格、言論、食事、宿泊などを規制することになった。 この規則が出されたとき、日本のマスコミは「清国留日学生取締規則」と解釈し、大騒ぎになった。 清国は、留学生を反清国革命派に送り込んだ事実を無視できない一方で、悪事を働いた者が大衆に危害を加えることを許せなかったのだ。 日本政府は日露戦争に勝ったばかりで、中国でのさらなる権益を得るために、清国政府と手を結んで学生を管理することを好都合だと考えていた。 留学生の中の革命家は、間違いなく規則で禁止されていた。東京の弘文学校にいた中国人留学生、陳天華は、抗議のために海で溺死自殺していた。


 清国留学生部寮の設置について、日本の文部省に提出した申請書の写しが早稲田大学歴史館に残っており、建物の構造(木造瓦葺き2階建)、間取り、食堂や洗面所などの設備が記されている。 また、校史には、1905年から1906年まで、清国留学生部の授業料が1人月3円、1人年36円であったことが記されている。 学生名簿や受験通知書などのほか、学生寮の記録として、諸費用や往来の手紙、学生活動などの記録も、大学の歴史資料として残してある。 近代日本の大学の多くは学生寮を併設していたため、必然的に学生運動の拠点となり、政府の大学に対する監督もそこに重点が置かれることが多かった。 早稲田大学歴史資料センターの資料から、留学生の「暴走」を防ぐための日中両政府の意図的な努力に基づくものであることは、想像に難くない。


 1905年の清国留学生部創設当初は、全員が予科に入学し、毎週月曜日から土曜日の午前9時から午後5時まで、日本語、数学、地理、歴史、絵画、体操などの「一般科目」を教え、日曜日は休んだ。 当時、学部課程は「政法理財科」「師範科」「商科」で構成される予定だったが、1906年に最初の入学者が学部課程に入った時、プログラムは「師範科」のみで、物理化学科、博物学科、歴史地理科から構成されていた。 その後、倫理学や教育学などの公共的な科目が追加された。 その後、1907年、清国政府の文化・教育政策の調整に伴い、予科と師範科は廃止され、代わりに3年間の普通本科が設置された。 同年、日本政府は「清国留学生指定校」制度を導入し、早稲田大学、明治大学、法政大学など5大学と、14の専門学校・速成学校が指定された。 早稲田大学はその2年前にすでにスタートし、モデルとなっていた。


 1905年の早稲田大学清国留学生部の入学者は762名、1907年は850名、1908年は394名であった。 卒業生の数は、1906年327人、1907年381人、1908年182人、1909年176人であった。 清国政府の対日公費留学制度の終了に伴い、清国留学生部は1910年に閉鎖されたが、この5年間、早大は清国留学生部を通じて、日本の学校の中で最多の2千人以上の中国人留学生を受け入れることになった。 そのうち6割にあたる1,000人以上が卒業し、残りは他校への編入や何らかの理由で退学していた。


 1906年、清国留学生科の第一期生が卒業した際、大学は卒業生全員に統一した紙を渡し、詩や作文、文書や絵など好きなものを選んでメッセージを残してもらい、「清国留学生記念誌」という冊子にまとめました。 青柳篤恒主任は、当時湖北日本留学生監督を務めた銭恂に自ら手紙を出し、この冊子の命名を依頼した。 銭恂は青柳篤恒への返事の中で、蘇東坡の詩「雪泥鴻爪」の一節を借りて、記念誌を「稲泥鴻爪」と名付け、1906年7月の『早稲田学報』第135号の記念誌報告で「鴻爪貼」と称していた。この「清国留学生記念誌」が正式に発行した時、名称は『鴻跡貼』となった。 1906年から1908年にかけての中国留学生たち(具体的な人数は要確認)が詩、書、絵画でメッセージを残し、『鴻跡貼』全7巻が刊行された。

 その中で、第一巻は当時の清国駐日公使、留学生監督楊枢、また地方各省の学監や学政、例えば銭恂、林灏深等23名の感想文を集めた(『宮崎滔天と早稲田大学中国留学生展』の展示資料より)、第二巻は卒業生が残した作品、一部は清国皇族の子弟などであった。


 『鴻跡貼』の詩文、書画などから、清朝末期の中国人留学生や監察官たちが高い国民的教養を持ち、自らの教養の縮図であったことがわかる。 また、早稲田大学に対する個人的な評価、世界最先端の政治経済、法律、教育、文化などの教義に対する知識、そして国のために法改正や改革を行おうという意欲がうかがえます。 署名では、「清国」を使う学生もいるが、「清国」のアイデンティティを避ける人も多い、特に洋務運動が盛んな地方出身者は、「支那」を使うか、あるいは出身の「省」だけ書く、少数の人は「中国」を使っていた。 銭恂本人は「中国」を使った。学生の謝辞に、早稲田大学、大隈重信のほか、鳩山和夫校長、高田早苗学監にも言及、最も感謝が集中したのは青柳篤恒主任であった。また、『鴻跡貼』を通じて、この留学生たちが基本的に20〜35歳の年齢層であったことも分かった。


  清国留学生部は清国の滅亡とともに歴史の表舞台から退いたが、早稲田大学に学ぼうとする中国人留学生は途切れることがなかった。


  百年来、早稲田を卒業した中国人留学生の足跡を辿ると、現代中国の創立に偉大な業績を残した方が多くいた。1905年、孫文と黄興は、在日中国人留学生を骨格とする中国同盟会を東京で結成し、約100人が参加した。 その中には、孫文や黄興に従って辛亥革命を起こした同盟員30人がおり、陳与燊、楊毓麟、宋教仁など、中国の振興のために命を捧げた人も少なくない。


  1912年、袁世凱が辛亥革命の成果を簒奪して皇帝となると、同盟会を含む5団体が中国国民党に改組した。 1914年、大隈重信が2度目の首相兼外相に就任し、1915年には日本を率いて「21条」を発布し、中国に受け入れさせた。早大の中国人留学生、李大釗は大隈重信の袁世凱政権支持に反対して立ち上がり、「日本中国留学生総会」を設立し、学業を中退し、数百の中国人留学生とともに帰国の途にたどった。1921年に上海で誕生した中国共産党は、その中心的指導者である李大釗と陳独秀がともに早大で学び、初期の中国共産党の指導者には澎湃、杜国庠、廖承志など早大出身者が多くいた。


 近代の西洋思想と日本の先進的な思想が中国に伝えられたのは、留学生の翻訳の功績をなしに語れない。1900年、早稲田大学の留学生の楊廷棟、雷奮、楊蔭杭、富士英が東京に日本初の留学生翻訳サークルを作り、「訳本編集社」が誕生した。日本語を通じて、世界の名作を中国語に翻訳し、その代表作は、楊廷棟の翻訳したルソーの『社会契約論』、これは最初の中国語訳であり、早稲田の留学生がルソーを中国に持ち込んだと言える。 楊廷棟はJ.W.バージェス『政治学論』の日本語版(高田早苗の東京専門学校講義録)を中国語に訳し、当時の草創期の中国現代政治学に大きな影響を及ぼした。 当時、「翻訳」は中国の外交派政治家に重宝され、欧米の思想を中国社会に広めるために「留学生編集局」を設立し、楊廷棟、楊蔭杭、雷奮、富士英、戢冀翚、陳縛賢らが大手新聞社に執筆しながら積極的に翻訳に携わっていた。留学生たちは中国に世界に向けた窓を開いた。 


 中華民国初期、国が貧しく弱体化していた頃、早稲田大学の中国人留学生は国を救うために教育を選択しました。1906年に卒業した繆其瑞は、中国交通大学の創設者の一人である。1911年に卒業して帰国した陳時は、翌年、中国初の私立大学である武昌中華大学(華中師範大学と武漢大学の前身)の創立に関わり、1917年に学長となった。 1907年に卒業し、1910年に帰国した湯増壁は、武昌蜂起に参加した後、1914年に湖南第一師範学校で教鞭をとり、毛沢東や蔡和森に教えを授けた。1909年に帰国した林長民は、1911年に私立福建法政学院(福建師範大学の前身の一つ)と福州二中を創設し、自らも福州二中の校長を務めた。 1909年に帰国した葛祖蘭は長年中国各地で教鞭をとった。1917年、蔡元培が北京大学の学長となり、銭玄同、李大釗、馬裕藻、陳独秀、朱希祖、杜国庠など多くの卒業生が初期の北京大学に就職し、北京大学の包容力のある校風を保持するだけでなく、新文化運動の精神的指導者、五四運動の原動力となった。


 中華民国初期、法制度の構築は、中国が近代化に向けて歩む上で必要不可欠なものであった。早稻田大学卒業した唐宝鍔、戢冀翚、楊蔭杭、馮自由、陳受中、李剣農、李肇甫などが、中国の法整備或いは法学教育に重き足跡を残した。


 李志偉は、中華民国財政部・農商務省顧問、中国銀行総裁、中日産業会社総裁などを歴任し、産業界を代表する人物であった。 中華民国の中央政府や地方政府で活躍した早稲田大学を卒業した中国人留学生は数え切れないほどいた。 また、有名な作家・詩人・翻訳家の蘇曼殊さんなどのような人物もいた......


 近代における日中の遺恨の歴史を歩いた早稲田大学の中国人留学生は、その気高い愛国心を見せてくれた。日本の中国東北地方への関与に断固反対した林長民、21条に断固反対した李大釗、1931年の九一八事件後に日本と戦った廖承志(中国共産党新華社社長)など、そして日本軍の真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の秘密電報を解読し、米軍に協力して日本軍の山本五十六を狙撃した国民党の諜報員池歩州などがいた。日本は偽満州国を通じて公費で東北から中国留学生を大量に日本に送り込んだが、清朝末期の清政府と同じ過ちを犯し、多くの反日志士を「養成」してくれた。例えば、偽満州国に潜入した中国共産党員の袁殊、張紹維、張紹紀など、早稲田大学も当然その中国近代史に名を残した中国人留学生たちの母校として校名が知られていた。 


 戦後、日中両政府の関係が途絶え、中国本土からの日本への留学生が半世紀近く空白になったが、早稲田大学と新中国との関わりは維持されてきた。近代史研究で著名な安藤彦太郎教授は、中国の近代史研究機関と協力関係を保つだけでなく、廖承志氏率いる中日友好協会とさまざまな形で協力し、民間交流も行ってきた。1950年代、早稲田大学は難しい政治情勢の中、郭沫若や梅蘭芳を団長とする訪日団を数回受け入れていた。


 早稲田大学は世紀を超えて世界的に有名な総合大学に成長し、卒業生には石橋湛山、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、福田康夫、野田佳彦など日本の総理大臣7人、国会議員100人以上が含まれ、また、宮崎滔天、浅沼稲次郎、松村謙三など、中国の近代史と密接な関係を持つ著名な民間人も輩出されていた。


 1972年、日中国交正常化に伴い、1979年に中国から初めて公費留学生が派遣され、また、一番早く扉を開いてくれたのは早稲田大学だった。2017年現在、早稲田大学には5,431名の外国人留学生が在籍しており、そのうち2,775名(51.1%)が中国大陸からの留学生である。早稲田大学は過去38年間、中国大陸からの数万人の留学生を卒業させ、彼らは中国のほとんどの省、市、自治区にて活躍している。


 早稲田大学では1957年から名誉博士号授与の仕組みを構築し、今年(2017年)までにインドのインディラ・ガンジー元首相、日本の松下幸之助、アメリカのビル・ゲイツなど内外の137人の優れた人物に名誉博士号を授与し、そのうち18人が中国本土の人物である。 孫平化中日友好協会元会長(1988年)をはじめ、陳家洱、王大中、馬俊如などがいた。


 「早稲田大学校友会」や「稲門会」が世界中に広がり、中国本土の「早稲田大学校友会」は遅れをとっていた。 その遅れた原因には、歴史の紆余曲折に先輩たちの無念があったかもしれない、或いは一世紀にわたる波乱万丈が稲門の後輩たちに畏敬の念を抱かせて、先人の跡を辿る会の結成を恐れていたのかもしれない。


 それにも関わらず、つい、2017年、早稲田大学の中国人留学生の歴史にまた新たな「鴻跡」が登場した!それは、「早稲田大学中国校友会」の中国本土での誕生である。


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