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執筆者の写真 早稻田大学中国校友会海外分会

日本の親の中国人と結婚しない12の理由,もはや弁明するすべもない...

邱兆鋒校友(GSAPS11’)のエッセイ,原文は中国語,本人の同意を得てここに転載


1


娘が中国人と結婚することに反対する12の理由


私の彼女(現在の妻)である智子の父親が彼女に書いたこの手紙を読んで、私はもはや弁明するすべもないような気がしていた。 手紙の内容は以下の通り。


1、結婚したら、私たちが亡くなるまで、実家の近くに住んでほしい。


2、私が老いたとき、あなたが近すぎず、遠すぎずでいてくれることを願う。


3、日中両国の文化が異なり、約束を守らない中国人が多い。


4、中国人も同様に日本を嫌っており、これがあなたたちの不幸の引き金になる。


5、彼氏本人の性格はともかく、両国の政治体制は全く違う。


6、将来、彼氏は両親の介護のために中国に帰らなければならない可能性がある。


7、あなたに日本での助産師の仕事を継続して、安定的に働いてほしい。


8、両国は、歴史問題を含め、多くの問題で意見の相違がある。


9、中国における情報の透明性がない。


10、娘には人生の舵取りを誤ってほしくない。


11、後日、彼氏は国から中国に帰国するように指示される可能性がある。


12、中国の環境と水質が心配だ。


2009年に書かれたこの手紙は、見出しもタイトルもなく、最初から最後まで一度も訂正することなく、極めてきれいに書かれている。 智子の父親は、日本の大手建設会社に勤めており、定年後も再雇用され続けている一人である。 老いてなお、日本人特有の真面目さ、時に堅苦しさがある。


娘が北京の1980年代生まれの中国人男性である私と交際し、もしかしたら結婚するかもしれないことを知り、職場でこっそりこの手紙を書いたのだそうだ。 多くの日本の父親がそうであるように、智子の父親も子供の前では常に厳しい態度で、父と娘の直接的な対話はほとんどない。


日本の親は一般的に、子供の恋愛に干渉しない。 しかし、結婚となると相手が誰であるかは気になるもので、干渉するかしないかは人によって違う。


智子がオンラインチャットでこの手紙を読んでくれたとき、私は2人の未来に戸惑いを感じた。 中国に行ったことのない智子のお父さんが、偏見を持っていることは間違いない。 しかし、残念ながら、客観的には、世論に影響された日本人の多くが、同様の意見を持っていた。


その頃、私の母も北京から2600キロ以上離れた福建省の故郷で、鍋の蟻のように不安な日々を過ごしていた。


少し前に、結婚したい人ができたこと、智子と国を越えて4年付き合っていることを電話で伝えた。 その直後、母は風水師に占いをしてもらった。福建省では占いや風水が盛んで、小学校を卒業していない母は、大きな決断をするときに風水師に「相談」に行くのだそうだ。


100元も出してまことしやかだの占いをした母は、慌てて電話を掛けてきて、「絶対にダメ、あなたより年上の嫁さんとは結婚できない」と強く決意を伝えてきた。 続けて、「中国と日本は遠い!」と説得し続け、「もし、両国が再び戦争になったらどうするの?そして、あなたが日本に行ったら、私の将来の老後はどうなるのでしょうか? 故郷の人々は、私が自分の息子を売ったと言うだろう!」


長男は親の老後に責任を持つべきだという考え方は、土楼に住む客家人にはさらに深く根付いている。 私の心臓がもがき始めた。


2


着物姿の彼女が目にとまった


智子との出会いも、偶然の産物だった。


学部時代は、日本に1年間派遣され、千葉大学で留学していた。 その間に、日本の先生から現地の公務員に中国語を少し教えてほしいと頼まれ、 時間があるので、喜んで承諾した。


「生徒」のほとんどがオバサンで、私と同い年代は智子だけだった。当時、彼女は26歳、千葉の病院で助産師をしていた。 病院が市立であったため、公務員でもあった。


正直言って、智子は人目を引くようなタイプの女性ではなかったが、日本女性の伝統的な柔らかさと優しさを持っていた。優しく話し、人の話を聞くときはいつも笑顔で、新しいものを見るといつも「わあ、かわいい!」と驚いているような顔をしていた。


本当に智子のことが好きになったきっかけはある時のことだ。それは、授業で着物の話をしていて、間近で本当の着物を見たことがないと私がつぶやいた。驚いたことに、翌日、着物姿で教室に一番乗りした智子は、小さな足取りで私の方に歩いてきて、「昨日、着物が見たいって言ってたから、この服を着てきたんだけど、どうだった? いい感じですか?」


彼女は唇を噛み締め、私の褒め言葉を待っているかのように頬を紅潮させた。 緋色の桜をあしらった細身の紅型の着物には、真ん中に銀色の帯が巻かれている。 顔がほころぶのを感じながら、「女は女らしく」という言葉が頭をよぎった。


それがきっかけでお互いを思いやるようになり、やがて正式な付き合いとなった。 留学終えた後、北京と千葉を結ぶ遠距離恋愛が始まった。



遠距離恋愛を解消したく、智子と結婚したい、この思いを抱えながら半年間の進学準備を経て、日本の名門私立大学である早稲田大学の大学院の合格通知を手に入れた。 しかし、両家の両親の強い反応から、この関係が危ういことを覚悟していた。


智子のお父さんを説得できる持ち物はなに一つもない。この早稲田大学の合格通知を除けば、当時の私は「車なし、家なし、格好いい顔なし」の裸一貫だった。


学部卒業後、人脈なに一つもなく、私は北京に残り、日本のメディアの北京支局でニュース・アシスタントとして働きはじめた。外国メディアの支局は外資系企業同様、北京の都市戸籍を与えてくれないので、私の戸籍は余儀なく福建省実家の農村戸籍に戻った。両親は20年以上前から私の大学進学のために貯金をしてくれていたのに、まさか貯金をはたいてでも、戸籍が田舎を離れられない運命となり、両親はかなり悔しがった。 故郷の言葉を借りれば、戸籍が農村戸籍に戻るということは「穀物を食べる」ということであり、私は一生「白米を食べる」という希望は持てなかったようなことだった。


私自身は戸籍よりも不安だったのは、お金のことだ。 早稲田大学に合格したとはいえ、学費をどうするか。親はできる限りのことをしてくれたし、故郷の親戚もあてにはできない。 普段の給料の大部分は、まだ福州の大学に通っていた妹のために使わなければならず、3年間働いても銀行には4万元の貯金しかなかった。 当時は、北京オリンピックが終わったばかりで、北京の不動産価格が高騰していた。 この金額では、1平米相当のマンションのトイレぐらいしか買えません。


私は決して格好いい男ではなかった。見た目は、典型的な客家人の顔をしているため、東南アジアの留学生と思われることが多く、大学4年間、クラスメートからからかわれていた。 南方の田舎に生まれた客家の私にとって、たくましい都会の女の子たちを前にして、頭を堂々と挙げるのも大変なことだった。


私の恋愛は、大学4年間、智子以外には何もない籠城状態だった。 さて、命の灯が見えてきたとき、再び両親の反対で私は混沌状態に陥った。


3


日本人看護師と無一文で結婚


半年間、友人や年長者に相談し続けた。


最後はドアを閉め、部屋で一人こもって丸一日考え事をして過ごした。 このまま智子と別れてしまったら、さぞ後悔はないのだろうか、と自分に問いかけ、明らかに、答えはノーだ。


数日後、母から再び電話があり、「人生の前半は親があなたと過ごすが、後半はあなた自分が一緒に過ごす人を探しなさい」と180度態度が変わった。「自分たちの面倒は自分たちで見るから、あなた自分のことは自分で決めなさい。」と言ってくれた。


次に、智子さんのご両親に手紙を書くことにした。


その手紙は2ページ、全文日本語で書きあげ、2,000字で構成されていた。 日本人は細部にまでこだわるので、4、5回、智子に手伝ってもらいながら日本語を修正し、最後に書き損じのないように丁寧に清書したーーこれで好印象に残るしかない。


小林さんご夫妻へ。


勝手ながら、突然のお手紙を差し上げることをお許しください。


智子とのことでご迷惑をおかけしました。 智子との関係の中で、いろいろと勝手に決めてしまったことがあり、まずはお詫びを......(ここで200字省略)。


私は中国の南にある福建省というところから来ました。地図で見ると、台湾と海を隔てているのがわかりますね。 家には両親のほかに、大学生の妹がいます。


私は智子さんがとても好きです。 彼女はとても優しい人で、私の尊敬に値します。 検討の結果、私は日本に留学し、卒業後は日本で働き、本格的に智子さんと一緒に暮らすことにしました。


もちろん、両親の同意をも得て、「年に1回帰ってくれば問題ない」と言われ賛同してくれました。 私も智子も考え方が未熟な点が多いかもしれませんので、ご指導のほどよろしくお願いいたします。


今後、日本でお世話になることは多々あると思います、ぜひともご都合をつけて私の故郷を訪ねていただきたいと思っています。 この手紙を読んでくださってありがとうございます。寒くなってきましたので、どうぞご自愛ください。


短い手紙ですが、下書きをして何度も清書して2日かかりました。 その時、私は2人のお年寄りに私の心を見せようと決心しました。


その手紙を智子に送り、智子よりそれを両親に伝えてくれた。 手紙を読んだ後、「手紙は届いています、どうしてもという時は必ず相談してください」というショートメールだけが返ってきた。


20字あまりのショートメールで、そこから私と智子の付き合いを同意したのかどうかは不明だった。 しかし、少なくとも「12の理由」よりはずっと柔らかい表現だったので、少し希望が持てた。 次に、私がありのまま生きた人間として彼らの前に立ち、言動を通じて信頼を得、同意を求めることしかない。


母は占い師に遠方への渡航のいい日を占っていただいた。それに従い、2009年9月9日、私は東方航空に乗り込み、東京へ向かった。


私が家を出る日、両親は私の新しい土地での新しい生活を願って、赤い紙で結んだ長い爆竹を実家で鳴らしてくれた。 重いスーツケースを引きずって、複雑な心境だった。


今回、私は家を出て外国に行き、そこで4年間私を待っていた人を守ることになる。 26年間、私を育て、守ってくれた家に帰れなくなるのだ。


半年後、私は智子の両親を説得し、家族で福建省に戻り、200人以上の友人や親族が見守る中、結婚式を挙げることができた。智子への嫁入り御礼として、父は智子の両親へ3,999中国元を入れた赤い封筒を包んだ。 しかし、翌日、智子の母親は「人民元はいらない」との理由でそれを私にくれた。


こうして、車も家も格好いい顔もない裸一貫の私は、無一文で智子と結婚した。 その後、彼女は双子を含む3人の息子を授けた。 現在、家族5人で東京近郊で幸せに暮らしている。 国籍、年齢、経済的、文化的な背景は関係なく、本当に愛し合う人には幸せの扉が必ず開かれるのだ。 あの狂ったような愛の年月を思い出すたびに、私の心はいつも日の光を浴びたように温かくなる。


4


日本の女の子:中国の男性の勤勉さと真面目さが好き


出会ってから結婚するまで、智子は北京や福建省に十数回飛んできて、私が大学院生だったころの最初の学費も援助してくれた。 彼女の無我の貢献は、私にこの隔たりを越える自信を与え、今に至った。


私はよく智子に、「私は子供の頃、故郷で封建社会を経験し、その後、中国の政治の中心地、社会主義の雰囲気の強い首都北京を経験し、そして、資本主義の花形である東京に来たのだ」と言う。 マルクスの人類社会発展段階説に従えば、私は30歳にして、封建社会、社会主義社会、資本主義社会を見事に渡り歩いたことになる。


欧米をはじめ、さまざまな国を旅してきた智子だが、幼い頃から島国・日本に住んでいた。


彼女は単純なので、私が100人以上の大家族の中で、家族関係の複雑さの中で育ったことを想像もできないだろう。小さい頃、旱魃のため、私は寒くて風の強い冬の真夜中に起きて、井戸の底から水が少しずつ上がってくるのを待ってバケツに水を少しずつ汲み入れ、重いバケツを若い肩で担って懐中電灯を持って家に帰ったことや、家計を少しでも補うために小学校の頃から人雑踏の賑やかな市場で屋台料理を売り、お客を募り、食事を出し、精算までを一人でこなしていたことも想像できないのだろう。


私は智子に、実家ではどのように太った豚を十数頭、鶏、アヒル、ウサギ、ガチョウを30~40羽を育てるか、また、大豆をどのように豆乳、豆腐、さまざまな豆腐加工品にするかを説明したり、自ら厨房に入り、客家風おやつの牛肉団子を作ってあげたりしていた。


そんな「辛い経験」をしているからこそ、彼女は私に感動してくれたのだ。 正直なところ、これらの体験は私に劣等感を抱かせたが、中国に好奇心を抱く日本人女性である智子にとっては、中国人の魅力である人生の広さと厚みを象徴するものだった。


「山間の小さな村から自力で北京の大学へ、そして日本へ留学と、苦労を重ねながら育ったんですね。 自分自身の努力と勤勉さがなければ、これらの夢は実現しなかったし、運命も変わらなかったという精神は、私を含め、快適な日本で育った若者には全くないものです。 だから私はあなたに憧れ、そういう方と結婚したいと思ったのです。」 ある夜遅く、車で帰宅したとき、助手席に座っていた智子がこんなことを言ったのを思い出した。


「私がお金も家もないことを気にしないの?」 と聞いてみた。


「モチベーションの高いあなた、頑張れば車も家も手に入らないのでは?」 と智子は聞き返した。


鼻がつんとして泣けてきた、私は車をしっかりと道端に停め、頭を突っ込んで彼女に軽く優しくキスをした。 人生はまだ始まりの時のままだ。


5


テレビで中国を「中傷」するニュースが現れたら


義父は無言で別のチャンネルに変更


結婚してから、義父母と私はとても仲が良くなった。 義父の考え方は一朝一夕には変えられないものが多いのだが、私が来たことで中国にとても興味を持つようになったようだ。 現在、彼の本棚には中国関連の本がどんどん増えており、中国や中国人のことを知りたいという意欲の表れである。


一緒に食事をしていて、テレビのニュースやバラエティー番組が中国を「中傷」していると、私を困らせないようにと、いつも黙って他のチャンネルに変えてしまうのだ。


私も義父母と一緒にいる時は、食事は必ずご飯を最後まで食べる、約束は守る、遅刻はしないなど、中国人のステレオタイプの払拭を心がけていた。


日本人は、人間の小さい出来事に本質が現れると信じている。 今にして思えば、この言動があったからこそ、義父母も私と智子の結婚に賛成してくれたのかもしれない。 彼らは、誠実で良心的な若者を信じることを選び、その背後にある家柄や国の違いを重視しなかった。


毎年7,000組以上の中国人と日本人のカップルが結婚しているが、中国人男性と日本人女性の結婚がその10分の1しか占めていない。 一方で、日中間の国際結婚の離婚率は40%と高く、これは中国人と配偶者、結婚後の相手の親との文化の違いも大きく関係している。


智子と意見が食い違うこともあった。 分かり合えないと思ったら、鍵のついた引き出しを開けて、当初の手紙を取り出して、ランプの下で静かにそれを読むと、いつもほっとするような安堵感が湧く。


また、両親にも感謝している。 日本の土地を踏んだこともない人たちが、私と智子を結んでくれたのだ。 それでも、今の私の幸せは、両親の孤独の上に成り立っているのではないか、両親が年老いて子供との付き合いを必要とすることを考えなかったのではないかと、自責の念に駆られることがある。


今でも、故郷の親戚や近所の人たちはそのことを話題にし、母に面と向かって「息子を大学に行かせるために育てたのに、まるで売ったようなものね」と言うこともある。 母はいつも笑いながら、何も言わず、ただスマホを取り出して、写真-私と智子と子供たちが一緒に写っている家族写真-をいつも見せていた。


私が結婚して何年も経った頃、母が初めて日本行きの飛行機に乗った。 その際、読み書きができないために入国カードを記入することすらできず、結局見知らぬ人に助けてもらいながら入国することができた。


この日本での旅で、母とどんな会話をしたのか、ほとんど忘れてしまった。ただ、はっきり覚えていたのは、ある夜、智子と子供たちが寝ていたときに、母は私と顔を突き合わせて話していた。「私は、あなたと智子と子供たちがここで安全に幸せに暮らしていることが何より嬉しいのです。」この淡々とした一言、私の長年の自責を慰めてくれた。


私が望むのは、子どもたちが成長したら、自分はときどき中国の実家に帰り、母の隣に寄り添って、「家に帰ったよ、私の家はあなたのいるところだ」と静かに言ってあげたい。


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