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日本で李大釗の青春の足跡を辿る


2021年7月6日、新華社・東京(文:郭丹、曹温、杜暁煜、郭偉)。

早稲田大学歴史館の壁面には、著名人の名言がずらりと並び、「若々しい私で、若々しい家庭を、若々しい国家をつくる......」という刺激的な一節がある。

1916年の春、一人の中国人留学生が、悲しみと怒りに満ちて書いた「青春」というエッセイは、無数の民族を目覚めさせた。 中国共産党の主要な創設者の一人であり、マルクス主義の伝道者である彼、李大釗は、このような人物である。


李大釗の学籍謄本(ファイル写真)をカラースキャンしたものです。 発行:新華社(写真提供:早稲田大学中国校友会)


1913年に北洋法律学校を卒業した李大釗は、日本に留学し、東京のYMCAに住み、1914年9月に早稲田大学政経学部に正式に入学した。

早稲田大学中国校友会から提供された李大釗の学生証をスキャンしたところ、記者は李の名前、住所、出身地などの基本情報に加えて、李の在籍情報があることをはっきりと確認した。 日本の李大釗の専門家である愛知県立大学教授の川尻文彦氏は、「李大釗が無審査で入学したことは、準備欄から明らかだった」と説明する。

早稲田大学歴史館で、李大釗関連の「大学部政経科徴収簿」2冊を見た。そこには、李大釗、9月9日に5円、10月26日に4円半、11月9日に4円半の授業料を支払ったことが、はっきりと筆記体で記されていた。


これは、李大釗が東京に留学した際の授業料を記録した冊子で、3月30日に撮影されたものである。 写真提供:新華社通信 杜暁瑩


早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎氏は、著書『未来への架け橋-早稲田大学と中国』で、李大釗の成績表を示すだけでなく、彼が留学中に学んだ11科目とそれを指導した教師について詳しく述べている。 他の日本人留学生と比較しても、李大釗の成績はかなり良かった」と評している。

川尻文彦によれば、李大釗は北洋法律学校時代にすでに同校の教師に積極的に日本語を学び、1913年には日本人中里弥之助の『トルストイ主義綱要』を翻訳して中国語で出版している。 このことから、李大釗は天津にいたとき、すでに一定の日本語能力を有していたことがわかる。 来日してからは、住んでいたYMCAで積極的に英語の勉強もした。


早稲田大学早稲田キャンパスの正面玄関(3月31日、東京都千代田区で撮影)。 写真提供:新華社通信 杜暁瑩


李大釗が早稲田大学に入学した1915年1月、当時の内閣総理大臣・大隈重信は、中国を滅ぼすための「21ヶ条」を密かに内閣に提案した。 このとき、日本に留学している中国人学生の反応は非常に強く、李大釗は留学生の抗議行動に積極的に参加した。 また、二十一条を強く主張する浮田和夫や袁世凱の法律顧問である有賀長雄ら日本人教授の講義を拒否し、浮田や有賀を批判する「国家のあり方」などを発表している。

早稲田大学図書館の小さな中庭で、記者は桜の木の下に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄の銅像があるのを見た。李大釗は安部磯雄の講座を直接受けたわけではないが、川尻文彦などの研究者は、学問的な影響よりも精神的な影響の方が大きかったとみている。 また、安藤彦太郎は、安部磯雄の思想が李大釗の社会主義思想への転換の引き金になったと考えている。

1916年2月、李大釗の学籍簿には退学した日付が押され、4月には、いわゆる名門の日本教育を捨てて袁世凱との闘いに参加した数百人の中国人留学生と合流したのだった。

そして、1927年、李大釗はその若き命を捧げ、青年期の闘争の本質と意味を世に示したのである。 (文:郭丹、曹文、杜暁益、郭偉、編集:沈浩洋、唐志強、王申、楊超倫、陳博、趙景晶)


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