北京稲門会&中国校友会章弘さん(政研90)のWeChatから転載、原文は中国語版、日本語はDeepLによる自動翻訳、ここでのブログ掲載は本人の同意を得ている。
特に朝日を見るのが好きです。いつも希望の光を与えてくれます。 一日中北京を離れることが許されない昨日も今日も何も変わらないにもかかわらず。
北京、晴れ、最高気温26度、最低気温14度、大気質予報指数23、空気良好。
10日間にわたる英国エリザベス二世の告別式と葬儀は、いずれも北京時間の昨日に終了しました。 世界200の国と地域が、国家元首またはその代理人、政府首脳、王室上級議員をロンドンに集まり、告別式と葬儀が行われました。 女王の葬儀は、さまざまなメディアを通じて、全世界で45億人が見守ったそうです。
ロンドンから見れば、近東の某国でまだ戦争が続いており、両陣営が実戦を繰り広げています。 しかし、女王の葬儀は、異なるイデオロギーや価値観を超越して、再び東洋と西洋が一緒になってロンドンの式典に参加し、イギリスの文明を浮き彫りにするものでした。 女王は生前、平和と交流の象徴であり、その旅立ちは今でも人類に集会と結束をもたらしています。この世界の他の国家元首にそんなことができるでしょうか?
10日間、何百万人もの人々が女王の棺を見るためにイギリス中から集まりました。 しかも、12〜14時間という長蛇の列を並ばなければいけないにもかかわらず、人々はブラックフォーマルドレスやダークスーツを着て、棺に近づく順番を街角で静かに待っていました。
一般に海外では、社会的な影響力のある人物の遺体を見送る場合、政治家や公務員が優先的に弔問し、遺族と握手することが多い。 そして、一般の弔問客が入場し、一礼して敬意を表します。
しかし、ロンドンでは、アメリカ大統領、フランス大統領、カナダとオーストラリアの首相、日本の天皇、中国の副国家主席など、遠くからやってきた外国の要人は2階の回廊を手配され、それ以外のすべてのイギリス国民は、社会地位や影響力に関係なく、女王の棺が置かれるウェストミンスター・ホールに入るために1階の廊下に整然と同じ列に並んで、女王に最後の別れを告げる必要があるのだそうです。たとえば、サッカーのスター選手のベッカムは、女王の棺を拝むために13時間もの行列を並んだと伝えられています。
19日、女王の棺は馬車でロンドンの街を引き回され、女王が最もよく知る首都とそこの人々に最後の別れを告げました。
イギリス諸島、そして世界中から集まった何百万人もの人々が、涙をぬぐい、拍手をして、女王に別れを告げました。 女王が国家元首として愛されていることがよくわかりました。
70代のチャールズ王は、女王の棺の後ろで、軍服に身を包んで、王室一家を率いて、一定のペースで歩を進めました。 十数キロの距離を、疲れや気の緩みなど微塵も感じさせずに歩き通しました。
赤い上着にダークネービーのドレスパンツに黒い熊の毛皮の帽子 (Bearskin)をかぶったイギリス近衛兵が棺の両脇を歩きました。 軍楽隊が終始荘厳な行進曲を演奏し、旅立ちのセレモニーに一層の威厳を与えていました。
海外では、田舎の葬儀はまだかなりフォーマルなものが残り、それ以外、特に首都のような大都会で行われる告別式などは、とても略式な葬式になる傾向があります。 遺体を囲んでスピーチし、亡き人を納棺し、遺体に三礼して家族と慰めの握手を交わして葬儀は終わります。
北京で、市民が自発的に10キロメートルの長安街で見送りをしたのは、私の記憶では2回しかありません。 1976年1月、周恩来の霊柩車が長安街を通過するとき、人々は凍てつく路上に待機し、礼儀正しく人柄のよい周総理に別れを告げました。そして、1997年2月、鄧小平の霊柩車が長安街を通過したとき、人々は再びこの通りに集まり、鄧小平が人々にもたらした良き時代に感謝しました。
このほかにも、清明節の天安門広場では、首都の人々が自発的に愛する政治家の死を悼んだことが二度ありました。 この2つの弔い集会活動は、いずれも後にこの国の政治運命を変える火種となりました。
女王の告別式を見ていて、個人的には、やはり葬儀はある程度フォーマル的である方が、その国の文化や伝統、品格があるように見えるのではと思ったのですが。
1986年10月にエリザベス女王が訪中し、それは英国の国家元首として初めての訪中でした。 最後に訪れた広州では、当時の広東省長であった葉選平氏と共に、イギリスから特別に持ってきたレッドオークを植樹しました。 36年経って、あのレッドオークはどう成長したのでしょうか。
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