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【8月30日 おはよう, 北京】

北京稲門会&中国校友会章弘さん(政研90)のWeChatから転載, 原文は中国語版、日本語はDeepLによる自動翻訳,ここでのブログ掲載は本人の同意を得ている。

 また霧がかかり、地下鉄ではすでに長袖を着た人が半袖の人を上回りました。

 北京、霧、最高気温30度、最低気温16度、大気質予報指数48、空気良好。

 北京の真北、中心軸の両側には、建築群の壮大な物語が展開されています。 鳥の巣スタジアム、ウォーターキューブ競泳場、国立競技場、国立会議場のほかに、歴史にまつわる建物が2つあります。 ひとつは中国共産党歴史博物館、もうひとつは今日の「おはよう北京」で取り上げたい中国歴史研究院です。

 最近、中国歴史学会が『明清の鎖国に関する新たな探究』と題する研究成果を発表し、中国内外の近代史の重大問題の解説者として知られる杜昌華氏がこの論文に関わるなど、論争が起きました。杜氏は、歴史問題を再考することは、新たな歴史根拠を発見するか新たな歴史的解釈にたいする社会的ニーズを持つかのいずれかである、と意見しています。

 また、この『明清の鎖国に関する新たな探究』に対して、批判、懐疑的な意見がかなりありました。明代、清代、特に清代の鎖国政策を否定するのは歴史に対して無責任であるとの主張です。

 この敏感な時期に発表され、しかも鎖国政策にたいする「新たな模索」であったため、私も思わず慎重にこの論文を読みました。

 実際、明代と清代、特に清代の外交・通商政策について、史学と史実の両面から論じています。

 一方では、西欧列強が強力な船と大砲を頼りに、宣教師と資本に包まれて野蛮に、血眼になって植民地支配の扉を開いた17、18、19世紀の背景を紹介し、明・清政府が発展途上の国産産業や国の伝統工芸、そして国家の安全への配慮からその扉を閉じたことを紹介したものです。 特に、西洋の宣教師に対しては、清朝の人々がいったん西洋の教えに洗脳されると、清国海域に進出した西洋船を迎えて朝廷を裏切ると考え、警戒心を抱いていました。 そのため、明朝や清朝は門戸を開くための制限的な措置をとりました。

 一方、明・清の中央政府は完全な鎖国政策をとらず、西洋の合法的な貿易を認めていました。 記事では、清朝の開国度を示す数字が挙げられており、毎年中国にやってくる貿易貨物船の数は、清朝初期の百数十隻から、後には五千隻を超えるまでになったそうです。 外国人の商品や日用品は天朝の市場に受け入れられないものが多かったので、外国人は銀も持ってきて天朝の商人と交易しました。

 明の永楽・宣徳時代(1405〜1433年)には、鄭和が7回の渡航を果たしており、すでに世界進出の重要性を認識していたことがわかります。

 また、当時の欧米の技術の急速な発展が第一次産業革命につながり、人類社会が飛躍的に進歩した時代であったことを認めています。 明と清、特に清は、産業文明の大波に積極的に立ち向かい、それに対応・収容するための総合的な国家発展戦略を打ち出すことができず、帝国統治の基盤を維持できなかったため、清朝は無知と後進性にとどまり、その歴史責任は清朝がゆるぎなく負うべきものでしょう。

 その中で、「旧態にこだわって心を解放せず、時代に合わせず、旧態にこだわって改革をしなければ、国は亡び、社会は停滞し、国民は生きられなくなる」と書かれています。 歴史の流れに対応し、積極的に適応し、変化を求めていくことでしか、時代と歩調を合わせることはできないのです。


www.DeepL.com/Translatorで翻訳しました。

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